
| プロの観光案内 上海のホテル |
|
真田 晃(元上海総領事館領事) 今回は、上海市内のホテル、それも、歴史のあるホテルに焦点を当ててみることにしました。古い 建物に興味をお持ちのお客様も多く、また、宿泊先、食事をとる場所でもあり、ホテルについての質 問はやはり多いようです。花園飯店の南側の低層部分が旧フランス・クラブであったことはホテルの 方から伺ったお話しの受け売りで凌いで来た案内人ですが、これが、錦江飯店、和平飯店となると大 分怪しくなり、それ以外のホテルはまるでお手上げという情けない有様。一言なりとも紹介できる様 にと、取り敢えず有名ホテルの建物の由来を調べてみました。 l、サッスーン財閥系の建物 上海の租界時代の建物については、サッスーン財閥を抜きにして語ることができません。サッスー ン財閥は、租界時代に最も多くの不動産を支配し、その最盛期には上海の全資産の20分の1を支配し たとさえ云われています。同財閥の中心となるサッスーン商会は、1832年にインドのボンべイで創設 され、その後、開港間もない上海に拠点を構え、イギリスの綿紡績品とインドの阿片を中国に売り込 む商売から、上海の不動産経営に手を広げ、財をなしていきました。先ずは、サッスーン財閥により 建設された建物から見てみましょう。 〈和平飯店北楼〉
皆様ご承知の深緑色の卜ンガリ屋根と老年爵士楽団で有名な建物です。現在は、南楼とあわせて和
平飯店となっていますが、ペアで建てられたものではありません。北楼は、サッスーン財閥が自らの
本拠とすべく建設したものです。1929年の竣工で、サッスーン・ハウス(沙遜大厦)と呼ばれまし
た。所有は、サッスーン財閥が経営していた3つの不動産会社の1つであるキャセイ・ランド株式会社
(華懋洋行)でした。1階から3階は銀行や商店に賃貸し、4階はサッスーン配下の会社の事務所と
し、5階から10階は、キャセイ・ホテル(華懋飯店)として用いられました。トンガリ屋根の下の11階
は、当時のサッスーン財閥の当主であったヴィクタ・サッスーン(1881-1961)の自室として使われ
ました。 〈新城飯店(都城飯店)〉 福州路と江西路の交差点の北東に位置する建物です。1930年頃竣工のこの建物は、メトロポール・ ホテル(都城飯店)と呼ばれ、上海の一流ホテルの一つとされていました。和平飯店の北楼と同じ く、設計はパーマー&ターナー事務所、所有はキャセイ・ランド株式会社でした。 〈錦江飯店南楼〉
現在の錦江飯店の中で、鷲が羽を広げたような偉容を誇っている建物で、ニクソン元米大統領や田
中元首相が宿泊し、また、米中両国の上海コミュニケ調印の場として上海一の格式を誇るホテルとさ
れています。元々は、外国人の長期滞在用のマンションとして建てられました。1931年竣工のこの建
物は、グローヴナー・ハウス(格林文納公寓)と呼ばれ、現在の錦江飯店北楼、茂名南路に面する商
店が入っている西楼、淮海路に面した国泰電影院(旧キャセイ・シアター)等と一体となり、住宅、
商業、娯楽施設を有する複合施設であるグローヴナー・ガーデンを形成していました。このグローヴ
ナー・ガーデンはサッスーン財閥が開発を進めたもので、この建物は、和平飯店北楼と同じく、パー
マー&ターナー事務所の設計、キャセイ・ランド株式会社の所有でした。様式的には、アール・デコ
に属するものです。 〈錦江飯店北楼〉 グローヴナー・ガーデンの北端に位置し長楽路に面する建物で竣工は一足早く1928年で、キャセ イ・マンション(華厦公寓)と呼ばれた外国人用のマンションでした。所有者、設計者とも南楼と同 じですが、様式的には若干古くゴシック様式に属します。この建物は、第2次大戦中に江南地方一帯 を指揮した旧日本帝国陸軍の十三軍司令部(別名「登(ノボリ)部隊」)が置かれた場所として知ら れています。 〈上海大厦〉 外灘から蘇州河を渡った外白渡橋のたもとに建つ上海を代表する建物の一つです。1934年竣工し、 ブロードウェイ・マンション(百楽匯大厦または百老匯大厦)と呼ばれた外国人用マンションでし た。サッスーン財閥配下のシャンハイ・ランドインベストメン卜社が所有し、設計も同社の建築部が 行いました(パーマー&ターナー事務所との説もあります)。様式的にはアール・デコに属し、建設 年代が新しいことから、上海でのアール・デコ様式の到達点であるともいわれています。この建物 は、日本の勢力が強まりつつあった蘇州河対岸地区にあったため、竣工後5年、1939年には、日本の 銀行資本に売却されています。その後、旧日本軍関係の機関(児玉機関)がこの建物の2階に置かれ たとされています。また、李香蘭がこのマンションに住んでいたとの説もありますが、真偽の程は定 かでありません。 2.旧共同租界内の建物 〈和平飯店南楼〉 北楼と南京西路をはさんで向かい合っており、1階は粗石積み、2階以上は赤煉瓦の6階建ての建物 です。1906年にパレス・ホテル(匯中飯店)としてオープンしました。香港上海ホテル株式会社が所 有・経営したもので、サッスーン財閥とは関係の無い建物です。今回紹介している建物の中では最も 古いものです。設計はイギリス人ウォルター・スコットで、様式的には当時イギリス本国で好まれた ヴィクトリア・ルネサンス様式(更に細分すれば、クイーン・アン・リヴァイヴァル様式)に属する ものです。建設当時は、建物の屋上の四隅に塔が設けられていましたが、今は無くなっています。南 京路に面した入口の車寄せの上に、竣工の年である1906の数字が刻まれています。また、1927年に蒋 介石と宋美齢との結婚披露宴の場としても知られています。 〈浦江飯店〉 外灘から外白渡橋を渡って右側に位置し、上海証券交易所が入っていた建物として有名です。1912 年の竣工で、アスター・ハウス・ホテル(礼査飯店)と呼ばれ、和平飯店南楼のパレス・ホテルとラ イバルのホテルだったとされています。設計は、イギリス系のデーヴィス&トーマス事務所で様式的 にはパレス・ホテルと同じクイーン・アン・リヴァイヴァルに属するものです。 〈東風飯店〉 外灘のビルのうち、共同租界の南端であった延安東路の交差点から数えて2つ目の建物 ですが、 今では、ケンタッキー・フライド・チキンの店が入っている建物と言った方が分かりやすいでしょ う。英国人を中心とする親睦団体であるシャンハイクラブ(英國總會)の建物として、1912年に竣工 しています。このクラブは非常に格式高く、会員数は3~400人で僅かの米国人、フランス人、ドイ ツ人及び2人の日本人を除けばすべて英国人で、上海の英国人の牙城と言えるものでした。イギリス 様式の建築で、設計は、当然のことながらイギリス系のタラント&モリス事務所が手掛けました。し かし、1909年タラントが死去したため、これ以降の内装設計は、日本人建築家下田菊太郎(旧帝国ホ テルをフランク・ロイド・ライトと争ったことなどで知られている)が引き継いています。彼の設計 により、バーには世界一(東洋一?)長い力ウンターを設けたとされています。新中国建国後、1956 年には海員クラブとなり、1971年から現在の東風飯店となっています。入口の擦り減った大理石造り の階段や、建設当時イギリスから輪入され、今も健在のエレベーターは、充分80年の年輪を感じさせ てくれます。 〈華僑飯店〉 南京西路に面し、国際飯店の東側に建ち中央に塔を持つ建物です。1926年の竣工で、当時は、チャ イナ・ユナイテッド・アパートメント・ビルと呼ばれた高級マンションでした。中国名は、「金門飯 店」とする本がありますが、ビルそのものの中国名であるかは疑問です。設計者等については、調べ がつきませんでした。 〈国際飯店〉 人民公園(旧競馬場)の北側で南京西路に面して立っている24階建ての建物で、1、2階の壁面には 黒大理石が貼られ、これより上は化粧タイルが施されています。1933年の竣工で、当時は通称パー ク・ホテルと呼ばれていましたが、正式名称は、このビルが4つの民族系銀行(金城、塩業、大陸、 中南)の出資で建設されたことから四行儲畜會大楼(ザ・ジョイント・ソサエティ・ビルディング) とされていました。上海には戦前に10階を超える高層ビルが28ありましたが、このビルはその中で最 も高いものでした。1,2階部分は銀行や商店として使われ、それ以上がパーク・ホテルとして用いら れました。この建物の設計はアール・デコの時代にあって前衛的な作品で知られたチェコスロバキア 出身のL.ヒューデックによるものです。かれの前衛的な作品としては、この国際飯店の西楼にある 大光明電影院(1934年竣工、グランド・シアター(大光明大戯院))、後述の達華賓館等がありま す。建物の外面の大理石部分などの大胆な曲線や、大ぶりな室内装飾がかれの設計の特徴とされてい ます。パーマー&ターナー事務所の設計に前衛で対抗した、上海アール・デコの一方の雄と言えるで しょう。 3、旧フランス租界の建物 〈花園飯店〉
花園飯店のエントランス、ロビー等がある庭園に面した2階建ての部分と、以前舞踏場として使わ
れ、今もグランド・ボール・ルームとその名を残している東側の部分が旧フランス・クラブてあつた
ことは皆様ご承知の通りです。この建物は、1926年の竣工で正式には、セルクル・スポルティフ・フ
ランセと呼ばれたそうです。設計は、旧フランス租界内の多くの建物の設計に携わったフランス系の
建築事務所であるレオナール&ヴィセール(頼安工程師)によるものです。同一の設計者による代表
的な建物としては、淮海工寓(1930年代後半竣工、ガスコーニュ・アパート(萬國儲蓄會公寓))が
あリます。 〈衡山賓館〉 1935年頃の竣工の旧フランス租界内の高級マンションで、当時はピカルディー・アパート(華卞第 公寓)と呼ばれ、淮海公寓と同じく万国儲蓄會の所有でした。様式的には、アール・デコとされてい ます。設計はスイス出身の建築家で、外灘に臨む高層建築のうち唯一フランス租界にある旧フランス 郵船会社ビルの設計者でもあるルネ・ミニュティでした。 〈東湖賓館〉 現在の東湖賓館は、東湖路の両側に分かれていますが、このうち東湖路の東側の部分の中心である 3階建ての英国式の別荘建築は、新中国建国前の上海の暗黒街を取り仕切った青幇(チンバン)のボ ス、杜月笙の邸宅でした。竣工は1936年頃とされています。 4、越界路地域の建物 〈静安賓館〉 案内書では、1925年にドイツ人が建てたスぺイン風のマンションてある。あるいは、カジノで有名 な六園飯店であったとされていますが、これ以上のことは今回調べた範囲では判りませんでした。 〈達華賓館〉 延安西路と江蘇路の西南角に立っている10階建ての建物で、1932年頃の竣工です。建設当時はフベ ルトゥス・コート(達華公寓、原名をメゾースト・マンションとしている本もあリます)と呼ばれた 高級マンションでした。設計は、国際飯店で紹介したL.ヒューデックで、曲線を用いた外観など前 衛的な様式には相通ずるものがあります。また、この建物の材料は国際飯店建設の際の余りが使われ たこともあり、「小国際飯店」と呼ばれることもあったようです。 〈龍柏飯店〉 和平飯店北楼で紹介したヴィクタ・サッスーンの別荘であった、中世のイギリス風の建物が使われ ています。この建物の設計もパーマー&ターナー事務所が手掛けています。 以上のように、現在上海で由緒あるホテルとされているものには、租界時代ホテルとして建てら れ、一流ホテルとして名を馳せていたものと外国人用の高級マンション、クラブとして建てられその 後転用されたものが有ることが判りました。これらは、いずれも20世紀初頭の30年程の短期間に集中 して建てられたもので、これは、活発的な経済活動の影響で建物の新陳代謝が盛んであったものが、 旧日本軍の進攻、第2次世界大戦の勃発により急にその変化の足取りを止めたために生じたもので、 まさに建築史の一断面を切り出して見るような感じを受けます。 |