上海エクスプローラー
(本稿は1998年に掲載されました)

プロの観光案内 租界


元上海領事 真田晃

1 租界の由来

(1)英国租界

 上海に展開された租界は英国租界が最初です。これは、広州に限られていた中国貿易の窓口の拡大を望んでいた英国が、アヘン戦争の後の1842年に結ばれた南京条約に基づき上海港を海港させたことが発端となっています。直接的には南京条約第二条「(清国は英国人に対し)広東、アモイ、福州、寧波及び上海の町において商業に従事するため被害又は拘束を蒙ることなく居住するをえせしむべきことを約す」を根拠にして、1845年に上海道台(清朝の出先機関の長)と英国領事との間で「土地章程」(中国では、古い本では「地皮章程」、最近の本では「租地章程」となっています)が取り決められ外国人の居住地として租界がスタートしています。なお、1845年の土地章程では北(現南京東路)、東(黄浦江)、南(当時は洋jing浜クリーク、現延安東路)の境界は決められていたものの西の境界についての定めはなく、翌1846年になって西の境界(現河南中路)が決まり面積も0.56平方kmと確定しました(図のE1の部分)。

(2)フランス租界

 一方フランス租界は1849年に正式にスタートしました。これは、フランスが1844年に結ばれた黄浦条約にある最恵国条項を根拠にして、英国租界と同様の権利を得るべく主張して設けられたものです。その範囲は、英国租界と上海県城(現在の人民路、中華路に囲まれた地域)にはさまれた地域で、境界はそれぞれ東は黄浦江、南は現在の龍潭路と人民路、西は西蔵南路付近となっていて、その面積は0.66平方km(0.56平方kmとする本もあります)でした(F1の部分)。なお、フランス租界のスタート時に実際にこの地域にいたフランス人商人は1人だけであったと言われています。

(3)米国租界

 また、米国租界は1848年にスタートしています。これは、蘇州河の北岸に既に教会や家屋を建てていた米国人宣教師の要求を認める形で虹口地区一帯を明確に境界を定めず米国租界としたものです。その根拠は、やはり米国に最恵国待遇を認めた望厦条約(1844年締結)ということになります。

(4)租界の性格

 次に租界の性格ですが、これは、香港(他に、天津、漢口等にもありました)のような租借地とは異なっています。租借地のシステムは、外国政府がその土地全体を租賃し、これを分割して自国民あるいは他国民に貸与するのに対し、上海の租界は外国人が居住のために直接中国人の土地所有者から土地を買い受ける点で大きく異なっています。ちなみに、租借地は「コンセッション」、租界は「セツルメント」の訳語にあたります。上海において英、米は租界の呼称にセツルメントを使っていましたが、租界フランスは"Concession Francaise"と称しており、これは当を得た用法ではなかったとされています。  なお、日本においても幕末期の1858年に結ばれた日米修交通商条約により長崎、横浜等の海港地にセツルメントが設けられていますが(1899年に廃止)、日本ではこれの訳語を「居留地」としています。訳としては租界より居留地の方が原意に忠実であると思われます(中国の本でも、日訳の方が適切といっているものがあります)。

2 租界の拡大

(1)各租界の拡大

 英国租界は、まず、設立2年後の1848年(フランス租界の当初の境界決定と同日付)に西が西蔵中路、北が蘇州河まで拡大(E2の部分)され、面積は1.90平方kmになっています。
 フランス租界は、1861年に黄浦江と上海城にはさまれた地域で南に0.03平方km拡大(F2)され、総面積は0.69平方kmとなっています。  さらに、1863年6月には蘇州河北部の米国租界の境界がおおむね確定(E3)(境界が大ざっぱなため、面積は明らかではなかったようです)しましたが、9月には租界英国と合併し英米租界となりました。さらに1893年には蘇州河北部の租界が北に拡大(E4)され、面積は5.30平方km(英米租界全体では7.2平方km)となりました。1899年には英米租界が、西(E5)及び北側(E6)に拡大され、総面積が22.59平方kmになるとともに呼称が共同租界(インターナショナル・セツルメント)と改められました。
 フランス租界は、1900年にはF3の部分がさらに加わり総面積1.44平方kmに1914年にはF4の部分がさらに加わり10.44平方kmとなっています。
 これにより、図に示すように両租界が延安東路ー淡水路ー金陵西路ー延安中路、西の境界が華山路及び静安寺公園(旧外人墓地)の西南角からほぼ北に向かう線、南の境界が肇周路ー徐家匯路等となりました。

(2)越界路

 純粋な租界としての面積の拡大はここまでですが、さらに「越界路」地域という実質的な租界の拡大が続きます。越界路とは、租界内の主要道路が租界の外に伸ばされた場合にその周辺を租界と同じ扱いにするというものです。フランス租界では、F4の部分は実際は1900年以降にフランスが建設した多くの越界路の周辺地域を租界としたものです。共同租界についても、現在の虹橋飛行場にまで及ぶ地域(E7)30.92平方kmと、四川北路、魯人公園(旧虹口公園)付近の地域(E8)1.14平方kmが越界路地域となっていました。E7E8の地域の外周とその内部の実線で示した道路が越界路になります。

(3)租界拡大の理由

 このように租界が著しい面積の拡大を遂げたのは、当初外国人とごく限られた中国人(外国人向け商人や使用人)のみの居留地としてスタートしたものの、1853年の小刀会の上海県城占領、1860年及び1862年の太平天国軍の上海県城攻撃等のたびに大量の中国人が租界内に逃れ、人口が爆発的に増加したため面積が後追いで拡大されたものです。人口の増加のペースは、一説には1853年初めに500人前後だった租界内の中国人人口が1854年には2万人、1860年には30万人、1862年には50万人、つまり10年間で1000倍にもなったと言われています。最終的に、1930年代半ばには両租界内の中国人人口158万人、外国人人口6万人に達しています。

(4)日本租界

 なお、「日本租界」というものは独自に設けられたものではありません。共同租界のうち日本人が多く住んだ蘇州河北部の四川北路、呉淞路付近や、北部の越界路地域をそのように称しているものです。しかし、人口の面ではかなり多く、1930年代中頃の越界路を含む共同租界の外国人人口3万9千人のうち日本人は2万人を占めていました。

(5)電柱について

 また、英国(共同)租界とフランス租界では電柱の形が異なる(前者が四角い木柱であるのに対し、後者が凹型の三角形断面のコンクリート柱)とよく紹介されていますが、年代の新しいE5F4で示す租界地域では一概にそうは言えないようです。例えば、F4地域である東湖路や准海中路の領事館街等に木柱電柱が多く見受けられます。

3 租界の体制

(1)英国租界

 租界地内における課税、警察、公共サービス等の体制は租借地でないことから外国政府の協力な直接管理が取られず、基本的には外国人居留民の自治に委ねられる形となりました。
 英国租界では、設立当初から英国領事の指名する3人からなる道路ma頭公会を設け埠頭に関する税金の徴収にあたったとされています。さらに、1854年の土地章程の改訂で納税者大会及び道路ma頭公会を改組した市参事会がそれぞれ設けられ自治の基礎ができ上がりました。納税者大会は議会(立法機関)に相当するものであり、市参事会は居留民の選挙によって選ばれた5名の参事(後年増員される)からなるもので租界における政府(行政機関)に相当します。また、行政の実施機関として工部局もおかれています。この基本的な体制は、共同租界になっても継続していきます。工部局は名前が示すとおり当初は道路整備などの都市作りが主要な仕事でしたが、租界の発展と共に徴税や治安維持(警察権の行使)といった業務が比重を増し、都市国家のように発展した租界の政府機関の役割を果たすようになりました。

(2)フランス租界

 一方、フランス租界は1854年の改正土地章程の適用(工部局の管轄下にあること)を認めていましたが、1862年には独自の公董局を設置し工部局の管轄を離れました。さらに1869年には公董局章程を制定し独自の市参事会を設置しました。この参事会はフランス総領事が議長となり、選挙による8人の参事により組織されました。この参事会は英国のものと異なり、独自の執行権は有さずに執行権は総領事に属していました。つまり、諮問機関としての役割を果たしていたにすぎません。

(3)租界の撤収

 このような体制のもと、租界はあたかも独立の国際都市国家のように拡大の歴史をたどりましたが、第二次世界大戦を迎え幕を閉じることとなります。共同租界は1941年12月に日本軍に占領され工部局もその支配下となり名存実亡の状態になりましたが、形式的には1943年1月に国民党政府と米、英政府の間で中国における治外法権と租界の撤収が決定されました。さらに8月には汪精衛政府(南京政府)の接収を受けています。フランス租界は1943年7月ドイツ占領下のフランス・ビシー政府と汪政府の間で租界の返還条約が交され、同月末に汪政府の接収を受けています。


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