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― 「上海」はなぜ有名なのか ―

 現在はともかく、過去には世界に冠たる「国際都市」として不動の地位を有していました。そこには色々な民族の歴史模様が織りなされており、複雑かつ独特の街であったことが窺えます。そして、「日本」も重要な役者でした。現在も往年の面影が色濃く残る街ですが、歴史を知ると、そこかしこの街角の建物からセピア色の浪漫が浮かび上がってきます。

 現在、上海の歴史的建造物は大っぴらには整備されていません。しかし、歴史を知り、縁の建造物が現存していることを知れば、上海を観る目ががらっと変わり、現在の観光ツアーやガイドブックの観光スポットが何とも的外れなものにさえ思えてきます。

 ここでは、”租界上海”の歴史を大ざっぱに、わかりやすく、皆さんにご紹介したいと思います。まず第1〜3話では、歴史の「縦切り」、すなわち、時間軸に沿って歴史を概説します。続く第4話〜8話では、「横切り」。すなわち、国際都市「上海」の主体者別にスポットをあてて概説します。そして、第9〜11話では、日本人としては最も関心の深い部分。上海の歴史の大きな転換点となった戦争を概説します。最後の第12話では、戦前からの流れを受けた視点から戦後をまとめてみました。「おわり」には、参考文献を紹介しています。上海の歴史は奥が深いものです。ここに登場しない著名人もあまた上海に足跡を残しています。ご興味を持たれた方は是非ご一読ください。

 歴史を知ると上海が何故騒がれたのかが見えてきます。そして私は、この歴史から「日本」という国が近代国際社会において為してきたことの意味を深く考えさせられました。

 機会があれば、上海でその足跡を自分の目で見てみてください。

中尾 優

◆目 次◆

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  • 第1部
     第1話 租界誕生
     第2話 「魔都」へ
     第3話 租界終焉
  • 第2部
     第4話 租界に棲む人々「欧米列強」
     第5話 租界に棲む人々「亡国の民」
  • 第3部
     第6話 租界に棲む人々「日本」
     第7話 租界を享受した中国人
     第8話 新生中国の揺りかご
  • 第4部
     第9話 第一次上海事変
     第10話 第二次上海事変
     第11話 第二次世界大戦
  • 第5部
     第12話 中国の「上海」
     「おわりに」



(以下に本文関連の写真を集めました。別ウインドウが開きますので写真をご覧になりながら本文をお読み下さい)

 冒頭写真の邸宅は、フランス租界内にあり、元々は1900年にドイツ人が建てた館であったが、実は日本との因縁が深い。

 まず、1912年に官僚出身の“民族資本家”盛宣懐氏の物件となる。氏は官僚出身で大臣等政界の要職を努める傍ら、「民族資本家」として、製鉄コンビナート(製鉄所及び鉱山)、汽船会社等の事業活動を行っており、市内にはあまたの不動産を所有し、中国資本初の銀行「中国通商銀行」(1897年)や上海交通大学の前身の「南洋大学」を創設した。特に、盛氏が総経理(いわば社長)を務めていた中国の鉄鋼コンビナート「漢冶萍公司」は、官営八幡製鉄への原材料供給源であもあったことから、氏は官営八幡製鉄所、三井財閥と関係が深かった。

 辛亥革命(清朝を倒し1912年1月1日に中華民国を誕生させた革命。孫文が初代臨時大統領となる)前、清朝の郵電大臣でもあった盛氏は、鉄の需要を高めるため、外国借款を利用して鉄道の軌条統一をもくろみ、まず鉄道の国有化を推進しようとするが、これに中国の民衆が反発し、武装蜂起を招き、辛亥革命につながった。盛氏は、外国の保護の下、北京を抜けだし、三井洋行(三井物産の前身)の案内により、1912年1月3日、日本に亡命する。また、この時期、革命資金の調達に奔走していた孫文側と、鉱山ごと大陸利権を手中にしたい日本側との思惑が一致し、盛氏を中心に漢冶萍公司の日中合弁化、鉱山の日本への売却工作が進められることになった。しかし、袁世凱ら民族派が売国行為として反発する。盛氏は亡命先の神戸から漢冶萍の経営にあたったものの、結局、売却工作は頓挫することになる。盛氏は、1916年に再び上海に戻ってくるが、その年の4月に亡くなっている。

 日本の東京・芝の中華料理「留園」は、この盛氏の子孫が経営しており、この「留園」には新日鐵が出資をしている。盛氏の恩に報いるため出資したものと言われる。

 結局、この邸宅には盛氏自身が住んだかどうかは定かでないが、残された盛氏の子孫がしばらく住むことになる。その後、1929年には安徽省督軍の陳調元(国民政府軍事参議院院長)の物件となる。

 次に、1933年〜36年には親日政権であった北洋軍閥の頭目であった段祺瑞氏が、晩年、最期の3年間をここで過ごしている。毎朝、庭を散歩し、仏堂で読経をし、朝9時頃には、庭に籐椅子を持ってこさせ、陽に当たりながら静かに読書に耽っていた様である。この時期、段祺瑞は国民党から日々の生活費の工面を受けている。蒋介石は、段氏の学生として学んだ経緯もあり、二人の仲は良かった。蒋介石が段氏をこの邸宅に訪ねてもいる。段氏は1936年廬山にて逝去する。

 その後は再び盛家の物件となった後、戦前前後の時代を経て、現在は日本国総領事公邸として用いられている。

 また、租界時代の住所録等からは、1925〜30年頃には豊田佐吉一家がこの邸宅を含む区画域に住んでいたことがわかっている。しかし、残念ながら、氏の邸宅写真と一致する建て屋は見当たらない。おそらくは、現在集合住宅となっている隣の敷地が、その邸宅があった場所と推察される。


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